ひよっこブログ

やわらかいいのち

ぼくが泣いてる理由なんてわからないだろう

最近のことを書く。新卒で2年勤めた企業を辞めた。

コミュニケーション能力が無いわけではないものの、「自分のコミュニケーションの方法はどこかずれている。いくら気を使って考えても出てくる答えはいつも間違いだ」という強迫観念は、入社して1年で営業に飛ばされた私を大いに苦しめた。

この一年は個人宅に訪問して契約の更新手続きや新商品のセールスをするのが主な仕事だった。

まず、訪問のマナーがわからない。

アポ取りの電話を掛ける。出ない。次はいつ電話する?その日の夜?次の日?電話したあともこれでよかったのか?と延々と脳内会議。

家に着いた。車はどこに停める?玄関にチャイムがない。どうやって声を掛ければいいんだ。中から返事がない。馬鹿デカい声出してもなあ。約束してるんだし家の戸勝手に開けて声掛けようか?でも身だしなみ整えてる最中とかだったら良くないよなぁ。

自分が何につけても無頓着なので、普通がわからない。他の同僚はお客さんに苦言を呈されたりしない限りは気にしないんだろうけど、私は自分の一挙手一投足がずれているような気がしていた。お客さんに感謝されたときも。○○さん感じいいねと言われたときも。どんなときも罪悪感で押し潰されそうだった。

その上、私はセールスが苦手。押しが弱く全然契約してもらえなかった。
そもそも自分が押しに弱いのでお客さんにもそういう嫌な思いをしてほしくないのだ。服も店員にゴリ押しされれば全然好みで無くても買ってしまうくらいには弱い。

そうして罪悪感に蝕まれていったことと、企業の古い体制への疑問が募っていった結果私は辞めることにした。

何かと縁を切ることにあまり抵抗がないタチだったし、引き止められはしたが脅されたりもしなかったので思ったよりもスムーズに退職出来てびっくりした。

今はコロナを口実に(実際高齢の家族と同居しているので不安がある)就活をせず家事の手伝いや読書や勉強やYouTubeの閲覧、掲示板の巡回(後ろ2つが主ね)などをしている。

毎日目が覚めても心臓がバクバクして頭もザワザワして起き上がれないし本に手をのばしても結局イヤホンして音楽聴くことに逃避してしまうので私はすごく怠惰な人間なんだなあと痛感させられて苦しい。

私が退職前に退職したらすると決めていたことは、まず第一に良い精神科を見つけ、心を大丈夫にすること。大丈夫になってきたら転職活動を始めること。勤務地がある程度絞れたら引っ越すこと。引っ越したらピアノが弾けなくなってしまうからピアノを久しぶりに練習すること。社会人として必要なPCスキルを身につけること。

何にも出来てない。コロナ禍じゃなくても出来ることはたくさんあるが一つもできていないし、こんなに自分に不相応な計画を立ててしまう自分が毎度のことながらすごく憎い。

四半世紀も生きてなお、社会も自分も難しくて、どうしたらいいのかわからない。みんながとても軽やかに生きていてびっくりする。私は人間社会の中にいながら人間として振る舞えない。一人内に篭っても自分とすらうまく対話できない。この苦しみはいつまで続くんだろう。これから増大していく気しかしないね。

夢になる

さめざめと泣けば自分が美しく見えるのにと思った私は恥のかたまりでした
焼き立てのポップコーンを灰にしたらあの子はどう思うのかな、私のこと大好きになるの?
間違えないで、正しく色褪せていきたいと思えば思うほど、「傷は自己顕示欲のかたまり、かわいそうだね?」と狭いアパートに押し込められる日々
眠らなかった夜の次、踊り場の煙草で朝を始める 「まっすぐ生きていける」とはっきり心の中で呟いた その強さを私は信じている 季節も花々も私の生きてる世界からは遠くていじやける 私にはなんでも知り尽くしてほしいとお願いしてみたけど涙には勝てないから駄目だって わかってたはずだった

おなか からだ

頭が心がだんだんだめになっていくので、いっそ全て焼き尽くそうかと思いました みんな気持ちいいことが好きだろうから
摂食障害の当事者の声を読んでいると胸が痛くなるのは、当事者が哀れだから、とかではなく私にもそれがわかってしまうからです 世界が汚いので私が汚くなるのは当たり前です ありがとうを言うことすら怖い正直な私は毎日が暴力との闘い 命と隣合わせ とても生きています お前なんか生きていない みんなに生きてほしい

やわらかい切なさ

幸せだなあ どうしようもなく幸せなんだなあ

激しい感情に振り回されたい、くらいに思っていたけれど、ああこれが幸せなんだなあって冷静に思えるくらいが至高だ どれだけしっちゃかめっちゃかでもいい、そうすることでしか絶対幸せになれない、って思っていたけれど、周りに不快な思いをさせずに、嫌われずに、こんなにひっそり幸せな気持ちになれるんだなあ 

こういう気持ちになることで幸せは切なさを孕んでいるものなんだってことにも気づいた、でもそれが心地よい 私が今まで希求していたものは幸せではなかったのかもなあ

死ぬ気生きる気

吉野弘の『I was born』は少年が「生まれさせられた」という被害者意識を持っていることで、親が自分を犠牲をはらって生んでくれたという事実に対する罪悪感が必要以上にこみ上げてきて、自分の鬱屈した感情とそれに酔いしれてはいけないという責任感の狭間で葛藤するという内容の詩ですかね。決して「生まれさせられたとあなたは思ってるかもしれないけど、お母さんは命がけであなたを産んでくれているんだよ、(だから生まれさせられたなんて思わないで)」というメッセージがメインの詩ではないと思うんだけどそう思ってる人がちらほらいる気がする。現実に絶望するとなんで産んだんだ、と親を責めたくなる気持ち、自殺したくなる気持ちが生まれてくる。しかし親を前にすると何も言えない。死ねない。死にたい気持ちはこんなに大きい、たくさんの先祖が頑張って生きたおかげで私は生まれてきた、なんて気にしてる場合じゃない、今すぐここから飛び降りないと気が狂いそうだ、そう思ってもやはり親は裏切れない。親に対する感謝の気持ちが自分を思いとどまらせるというよりは、子供としての責任感によるものだと思う。私はこの詩の「少年」のような境遇ではないものの20年以上生活の大半を私のために費やしてきた親に罪悪感を抱いているがために辛い気持ちを自殺や堕落で解決できない。親がいなかったらとっくに大学辞めて水商売でもやってたよ。『I was born』の良いところはそんな「葛藤」が描かれているところだと思います。お父さんも少年の疑問をきちんと受け止めて共感した上で少年と一緒に葛藤しようとしたのではないかと思うなあ。

いけないことかい

こんな世の中だものポジティブでなんていられないしネガティブであるべきだとすら思う。

私は思考停止して人生が豊かなものになるよりは些細なことまで考えて苦しんで死んでいく方が幸せだと思う。幸せの定義的にはそれは幸せじゃないのかもしれないけれど。

今のこの死にたい気持ちがどうでもよくなるような嘘みたいな悲劇が私たちを待ち構えている。事故病気人災天災死別、明日はどうなるかわからないからせめて今日は楽しく生きようだなんて思えない。そのときが来るまでに考えなきゃならないことがたくさんある。そして人間だもの、来たる不幸に怯えるのは自然なことじゃないか。そんな風にこの世の全部が自分と連関し合っているって実感しながら生きることこそが生きてるってことなのでは。欲望に忠実に不安を忘れて生きるのは一見世界を自分のものにしているように見えるけれど、その場合あくまで世界は対象でしかない。私はただの個体で究極にひとりぼっちの動物だ。

そうではなくて私が世界から構成されているように。常に私が私以上のものであるような、流動的だけど私を超越した何かが私を巻き込んでいるような絶対的な感覚を持てる生き方をできるようにならなければという義務感に駆られている。だから安易にポジティブになるのは私にとっては負けを認めたようなものだと思う。常に不安に苛まれているくらいがちょうどいい。